政治家も検察官も「国民生活に仕える者」

2009年3月31日

 政治献金をめぐる数々の事件報道を通じて、多くの方に、政治に対する不信感や失望感を募らせてしまっている現状を、残念に思っています。
 また、一方で、検察捜査に対する不信感や不公平感を耳にすることも、少なくありません。
 元検察官として、かつ、政権交代を目指す一員として、心苦しい思いです。

 検察官も国会議員も、国民の皆さんから権限を与えられた、パブリック・サーバントです。
 国民から与えられた権限を使うことが許されるたった一つの目的は、国民生活に仕えることです。
 その目的を果たすために、
 検察官は起訴する(あるいはしない)権限を与えられ、
 国会議員は立法する(あるいはしない)権限を与えられています。
 どちらも、国民一人ひとりの生活に直結する、大きな権限です。
 苦しんでいる人を、救うことができる可能性と、より苦しめる危険性を併せ持つ権限です。
 
 だからこそ、国民から権限を与えられた者は、
 正しく権限を使うこと(合法であり公正であること)が求められると同時に、
 正しく権限を使っていると信頼されること(合法であり公正であることへの信頼)をも求められる
 と、私は考えています。
 
 前者について。
 小沢代表の秘書については、裁判結果が一つの答えとなるでしょう。
 検察捜査については、今後の捜査が進展することあるいは進展しないこと、進展するとすればその内容などが、判断要素になるでしょう。
 
 しかし、後者について。
「公正さへの信頼」を求める努力については、どちらの立場も十分ではないように感じています。

 
 公正さへの信頼を得る手段として、政治に求められるものの一つが、お金の流れの透明化であることは間違いないでしょう。
 ですから、現在、民主党内で、政治資金規正法の改革議論が具体的に進められていることは、信頼を得るための正しい道のりであると思います。
 ただ、日ごろの活動で聞かせてもらっている声は、「なぜ、政治にそんなにお金がかかるの?」「せっかく1人250円払っている政党助成金では足りないの?」「足りないとしても、なぜ、一企業が何千万単位のお金を献金するの?」という素朴な疑問です。
 だからこそ、私は、
  ?―政治活動に必要な経費項目の整理(政治のどこにお金をかけるべきか)
  ?―原資のあり方の検討(?のお金をどこから持ってくるべきか)
  ?―??が公正であることを信頼されるための公開の手続き(「どこから来たお金が何に使われた」ことをどうやって公開するか)
この3つを柱に、素朴な疑問に対するシンプルな回答が必要だと思います。
 
 そして、?について、まさに今政治活動の只中にある者として、改革の議論の中で取り上げるべきと思うことがあります。
 政治活動にムダなお金がかからないような法整備です。
 今度の衆院選を例に挙げれば、たとえば、3月10日を境に、ポスターの張替えがありました。
 皆さんの地域でも、そのころ、候補者1人だけ写っているポスターから、候補者1人を含む2人以上のポスター(いわゆる二連・三連ポスター)に張り変わってはいませんか?
 任期満了6ヶ月前からは、写真入りのポスターについては、2人以上写っているポスターの掲示しか許されないという規定があるのです。
 1人だけのポスター作成にもお金がかかり、さらに、いわゆる二連・三連ポスターを作成し張り替えるために、また、それなりのお金がかかります。
 ポスターを貼ることは義務ではありませんが、現行法で許される限られた活動の中で、存在を知ってもらい、話を聞いてもらうためには必要不可欠な活動です。
 私は、たとえばこの二連・三連ポスターは、政治活動の中のムダな出費ではないかと感じています。
 共に映る相手としての指名率が、政党内での人気のバロメーターとしてクローズアップされて、判断をくもらせたり、
 候補者が、「誰と映れば有利か」などという、根本的ではない、しかし、選挙戦を見据えたとき捨て置けない事情に頭を抱えたり、
 マイナス要素が多い上への、出費!
 もとより、私利私欲のために政治資金を使うのは違法であって言語道断です。
 しかし、まさに政治活動のために政治資金を使う際に、目的と手段がかみあっておらずマイナス要素が多い法規制によって、余分な出費をせざるを得ないこともあるのも現状です。
 この現状を変えたい。
 
 また、?について、「企業献金より個人献金」の流れを作っていこうという議論がされています。
 流れ自体には賛成です。
 でも、企業献金を制限するには、実質は企業であるにもかかわらず、形式を個人名にするという抜け穴を塞がないことには、またもやザル法になる心配があります。
 また、個々の国民の皆さんが政治献金に対して「グレー!」だと感じている今、個人で献金をして頂ければ「ホワイト」になりますと訴えるのは多少無理があるのかなとも感じています。
 堂々と、「個人献金で、政治家を通じて、政治に参加をしてください」といえるためには、やはり、自分が献金したお金がどういった政治活動に使われるのか、すなわち?の疑問にしっかりと答えることが先決だと考えます。

 加えて、?について。政治資金透明化のための法律に、抜け道の規定が忍ばせてあるようなことは、かえって透明性への信頼を損ね、逆効果だということを訴えたいと思います。
 先日の新聞報道で、こんなことが取り上げられていました。
 後援会の政治活動費の公開義務範囲拡大を目的とする法律改正の際、『当該後援会が「寄付金控除の適用」を受けない旨届け出れば、「その他の政治団体」として拡大された公開義務を免れる』ことを許す規定が入れられており、実際に、かかる届け出をして公開義務を免れた後援会が複数あったという報道です。
 届け出をして公開義務を免れたこと自体ほめられることではないと思いますが、問題の根本は、そういう抜け道を知りながら立法したことにあると思うのです。
 たしかに、「公開範囲を拡大します!」というのは、どんな場面でも聞こえがいいし、国民の皆さんにも信頼を得られやすい。
 でも、仮に、公開範囲の拡大に、デメリットや、あるいは現実問題としての困難があるのであれば、それは率直に語るべきだとも思います。
 それを語ることをせずに、抜け道をつくるという手段は、結局、国民の皆さんの信頼をより失うということ。
 私自身、しっかり心に刻みたいと思います。
 
 
 今回国民の皆さんから聞こえてくるもう一つの声。
 捜査機関の「公正さへの信頼」の問題。
 捜査機関が、現実に進行中の捜査について、「公正であることへの信頼」を求めるためにいかなる手段がとれるのか。
 
 着手した事件に対する具体的捜査手段の開示が、未着手の事件に対し手の内をさらすことにならないか。
 裁判前に、捜査機関側の見解が公開されることが、かえって公正さを害することにならないか。
 説明責任を果たすとしても、第三者のプライバシーや名誉をどう保護するか。
 など、慎重に考慮すべき事項が多く存在することは確かです。
 
 しかし、一方で、政治家とは異なり、国民による選挙を経ていないことをも併せ考えれば、
 公正に捜査をしていることに対する信頼を得る努力は必要不可欠だと感じます。

 いずれにしても、議論の出発点は、やはり
 「国民から与えられた権限を使うことが許されるたった一つの目的は、国民生活に仕えること」
 「国民から権限を与えられた者は、
  正しく権限を使うこと(合法であり公正であること)が求められると同時に、
  正しく権限を使っていると信頼されること(合法であり公正であることへの信頼)をも求められること」
 「国民生活に仕える者」である以上、
  結果として公正であればいいんだという姿勢は許されない。
  国民の皆さんから公正であるとの信頼を得るための、謙虚な姿勢と具体的な行動が必要とされることを、
  私自身、もう一度心に刻みつけたいと思っています。